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宇多田「人としゃべりたくないからゲームやってるのに、なんでゲームの中で人と話さなきゃいけないんだ」
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美術館に入るとやけに精巧な、そして巨大な、おばさんとおばあさんの中間くらいの像が立っていた。ロン・ミュエクだ。

私のあとから、像と同じくらいの年代の女性と、その娘という風情の二人連れが入ってきて、それを見るなり、同時に吹き出した。

気持ちはよくわかった。可笑しいから笑うのではない。名付けようもない感情が閾値を超えたから笑うのだ。

個人的に、芸術コンテンツにはそういう経験を求める。つまり、名付けようのない、きちんと整理できない感情的な経験みたいなものを。
たとえばこのあいだ「空気人形」を観たんだけれど、私は空気人形がシュウ ウエムラのカウンタでお化粧してもらうところでぼろぼろ泣いた。
最近やけに涙もろいので、映画はひとりで観ることにしている。でも、それにしたって泣くところではない。
別に感激したわけではない。悲しくなったのでもない。自分でも意味がわからない。
そして、意味のわからない経験をこそ、私は求めているのだと思う。

意味のわかる世界にずっといると、私は息苦しくなる。あるいはちょっと元気がなくなる。
もちろん私たちは、コントロールできない部分や道理にあわない部分を意図的に排除して平穏な生活を手に入れている。
でもそうじゃない部分は確実に存在する。私たちのなかに、私たちの外の世界に。
芸術というのは私にとって、小さい窓をあけてそれを見せてくれる装置だ。

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『なんだろーねぇ』
 
TSUTAYAの入り口にて
小さな女の子と若い母親がいて、ぐずる我が子を招き帰ろうとする母親
女の子は声こそ出していないものの、涙で顔ぐしゃぐしゃwで、ひっくひっく言ってる
 
するとそこへ水野真紀風のキレイめお姉さん入店
 
お母さん「さなー、ほら、おいでー」
 
女の子 「ずびっ、ぐしゅ、うぇっうぇ…ぶびっ」
 
お姉さん「おっ!お嬢ちゃん泣いてるねぇ!(と、女の子の頭に手を置く)」
 
女の子「!?(゜д゜)」
 
お姉さん「今お外行くと良いもの見られるよ!」
 
と言ってお姉さんはお母さんに会釈して文庫コーナーの方へ
 
見知らぬ人間の登場にすっかり泣き止んだ我が子の手を引き、
お母さんは「なんだろーねぇ」って言いつつ外へ
 
雑誌コーナー(入り口の真横)にいた自分も妙に気になりそそくさと後を追う
 
するとまぁ空に見事な虹がかかっていた
駐車場では女の子よりお母さんがはしゃいでいた
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Burning Man 2009 Part II :: Photography Served
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Burning Man 2009 Part II :: Photography Served
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「おまえの会話はキャッチボールじゃなくてドッジボールだ」と言われたでござる。
Twitter / 蛙 (via rpm99)
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Frederick Lim Cung Wei - Interior | via

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